Quantcast
Channel: 志度拓哉のブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 311

斎藤清作 たこ八郎と呼ばれた男の人生

$
0
0
別れないように気をつける恋は、
本当の恋ではない・・・・

迷惑かけてありがとう・・・・・・


80年代初頭、ガキの頃の俺は、
TVを付けると、当時の漫才ブームに釘付けになり、
お笑いは心を豊かにする魔法とさえ思っていた。

関西地区では、小学生に上がると誰が一番、面白いか競走する習慣がある。

手本とするのは、関西の漫才師が主だが、
その中で、一番、俺の感性に擽る、コメディアンが存在した。

イメージ 1

たこ八郎

本名 斎藤清作

「タコーです」
芸は、自己紹介で自分の名前を話すだけ。
トークも切り返しが効かず、アドリブなどもっての他。

キャラクター(本能)でTVのお茶の間で、人気を得て、
彼の芸風に心を奪われた当時の小学生は沢山、存在した。

だが、清作の本当の顔は、悲しく、儚く、そしてとてもカッコイイのであった。

イメージ 2


少年時代に泥遊びをしていた際に、泥が目に入り、左眼の視力は殆ど無く
貧乏家庭で、病院へ行くと迷惑がかかると、黙ったままであった。

その左眼の障害を隠し、高校時代から、熱心にボクシングに明け暮れた。
プロテストを受ける際は、障害を隠す為に、視力表を丸暗記して覚えたと言う。

ボクシング同様に、清作はコメディアンになるのが夢であり、
由利徹に弟子入りを望んだが、弟子にする気が無い由利は、
「ボクシングでチャンピオンになれたら弟子入りを許可する」
と突き放すのである。

勿論、チャンプになれる、ボクサーは僅かであり、当然、由利は清作がチャンプ
になるなんて夢にも思わなかったと言う。

清作は人の何倍もボクシングに熱くなり、練習を重ねた。
才能も努力次第で買えるのか?
と言わんばかりに、練習に明け暮れた。

入門した笹崎ジムでは、あのファイティング原田と同期であり、
東日本、新人戦で準決勝で競う事になる。
だが、同ジムでの対戦を清作は辞退し、その座を原田に譲るのである。

恨み事を言う様な器用な人間では無かったのか?

イメージ 3

ボクシングのファイティングスタイルも、独自なものであり、
ノーガードで手をぶらりと下げ、相手にパンチをひたすら打たす。

何発も打ってくる相手を疲れさせてから、一気にラッシュをかけ相手を倒す!!

元々、見えない左眼のハンデを、世間や相手に悟られない様に、ガードを辞め、
相手のパンチをひたすら受ける。
相手が戦意を失うまで、打たせる。

その独自なスタイルが、あの名作漫画(あしたのジョー)の矢吹丈のファイティングスタイルのヒントになる。

清作の独自なスタイルは名作まで生み出すのである。

そして日本チャンプになり、二度の防衛まで成し遂げるボクサーとなるのである。

イメージ 4

劇中の矢吹丈も、打たれ続け、真っ白に燃え尽き、パンチドランカーになる様に、
また清作もリアルなパンチドランカーになってしまうのである。

ポイント式の世の中、スーパーでも家電店でも皆、ポイントを集める。
いつしか、ボクシングもポイントで相手に勝つ仕組みが出来た現在の世に、
打たれても、打たれても、倒れず、その脅威が相手に戦意を喪失させる、
ファイティンングスタイルを見習って欲しいと感じるのである。

だが、日本チャンピオン三度目の防衛に破れ、清作もまた、
真っ白に燃え尽きるのである。

だが、そこで清作の人生は終わらない。

いや、ここから始めるのである!!

イメージ 5

本当にチャンプになった清作は、以前、約束した由利徹の元に行き、
正式な弟子となるのである。

ボクサー時代は、河童の様な髪型で(河童の清作)と呼ばれたが、
芸人となり、近所の酒場(たこきゅう)から頂いた(たこ八郎)と言う芸名になるのである!!

河童がタコになった!!
これが、清作のライフスタイルでもある。

毎晩、飲み屋で飲んだくれて、TVに出る時も、素面かどうか判らない独自な芸風。

TVの前の人々は誰もが、奇妙な芸人が登場したと思った。

だが、これらも、清作の演技であり、客観的に自分を見ていたと言う友人の
意見が数多く語られる事から、ボクサー時代から、本人が一番、本人を
理解していたと思われる。

イメージ 6

清作の才能はコメディアンには留まらず、
映画界でも才能を発揮し、
中でも山田洋二監督の(幸せの黄色いハンカチ)では、
高倉健と競演するなど、大物の役者との絡みも目立つ。

個人的には、松田優作主演の(探偵物語)の奇妙な酔っ払いや、
横山やすしと絡む(ビックマグナム黒岩先生)など、
昭和の大物カリスマと次から絡む演技が素晴らしく、
清作もまた、昭和のカリスマの一人であると思うのである。

イメージ 7

だが、清作はノーガードで戦うスタイルから、由利に弟子入りした時代から
パンチドランカーに犯されており、師匠の家でも寝小便はする。
呂律も悪く、毎晩、飲み歩く生活を送っていたと言う。

飲み仲間には、赤塚不二夫やタモリやあき竹城や団鬼六と言う
奇才な人ばかりで、オンリーワンな生き様を私生活でも送っていた。

だが1985年7月24日 真鶴の海水浴場で飲酒して、海に入った清作は、
そのまま心臓マヒにて死去。

44歳の早すぎる死に仲間は悲しんだ。


「たこは海に帰った。 何も悲しいことはない…」

とタモリは葬儀にそう言い残した。

今では、赤塚不二夫や立川談志と浴びるように飲んでいるのであろうか?

イメージ 8

清作の墓には、こう書かれている。

(めいわくかけてありがとう)

人に迷惑をかけながら、これだけ人から愛された人はいないであろう・・・・・・

だが、俺には偉大なボクサーであり、偉大な表現者であり、昭和を代表する
偉大なカリスマである。


今日のナンバー、親友であった、友川カズキがたこ八郎に捧げたナンバー、
彼が居た。



友川カズキ - 彼が居た ― そうだ!たこ八郎がいた


Viewing all articles
Browse latest Browse all 311

Trending Articles