別れないように気をつける恋は、
本当の恋ではない・・・・
迷惑かけてありがとう・・・・・・
80年代初頭、ガキの頃の俺は、
TVを付けると、当時の漫才ブームに釘付けになり、
お笑いは心を豊かにする魔法とさえ思っていた。
関西地区では、小学生に上がると誰が一番、面白いか競走する習慣がある。
手本とするのは、関西の漫才師が主だが、
その中で、一番、俺の感性に擽る、コメディアンが存在した。
たこ八郎
本名 斎藤清作
「タコーです」
芸は、自己紹介で自分の名前を話すだけ。
トークも切り返しが効かず、アドリブなどもっての他。
キャラクター(本能)でTVのお茶の間で、人気を得て、
彼の芸風に心を奪われた当時の小学生は沢山、存在した。
だが、清作の本当の顔は、悲しく、儚く、そしてとてもカッコイイのであった。
少年時代に泥遊びをしていた際に、泥が目に入り、左眼の視力は殆ど無く
貧乏家庭で、病院へ行くと迷惑がかかると、黙ったままであった。
その左眼の障害を隠し、高校時代から、熱心にボクシングに明け暮れた。
プロテストを受ける際は、障害を隠す為に、視力表を丸暗記して覚えたと言う。
ボクシング同様に、清作はコメディアンになるのが夢であり、
由利徹に弟子入りを望んだが、弟子にする気が無い由利は、
「ボクシングでチャンピオンになれたら弟子入りを許可する」
と突き放すのである。
勿論、チャンプになれる、ボクサーは僅かであり、当然、由利は清作がチャンプ
になるなんて夢にも思わなかったと言う。
清作は人の何倍もボクシングに熱くなり、練習を重ねた。
才能も努力次第で買えるのか?
と言わんばかりに、練習に明け暮れた。
入門した笹崎ジムでは、あのファイティング原田と同期であり、
東日本、新人戦で準決勝で競う事になる。
だが、同ジムでの対戦を清作は辞退し、その座を原田に譲るのである。
恨み事を言う様な器用な人間では無かったのか?
ボクシングのファイティングスタイルも、独自なものであり、
ノーガードで手をぶらりと下げ、相手にパンチをひたすら打たす。
何発も打ってくる相手を疲れさせてから、一気にラッシュをかけ相手を倒す!!
元々、見えない左眼のハンデを、世間や相手に悟られない様に、ガードを辞め、
相手のパンチをひたすら受ける。
相手が戦意を失うまで、打たせる。
その独自なスタイルが、あの名作漫画(あしたのジョー)の矢吹丈のファイティングスタイルのヒントになる。
清作の独自なスタイルは名作まで生み出すのである。
そして日本チャンプになり、二度の防衛まで成し遂げるボクサーとなるのである。
劇中の矢吹丈も、打たれ続け、真っ白に燃え尽き、パンチドランカーになる様に、
また清作もリアルなパンチドランカーになってしまうのである。
ポイント式の世の中、スーパーでも家電店でも皆、ポイントを集める。
いつしか、ボクシングもポイントで相手に勝つ仕組みが出来た現在の世に、
打たれても、打たれても、倒れず、その脅威が相手に戦意を喪失させる、
ファイティンングスタイルを見習って欲しいと感じるのである。
だが、日本チャンピオン三度目の防衛に破れ、清作もまた、
真っ白に燃え尽きるのである。
だが、そこで清作の人生は終わらない。
いや、ここから始めるのである!!
本当にチャンプになった清作は、以前、約束した由利徹の元に行き、
正式な弟子となるのである。
ボクサー時代は、河童の様な髪型で(河童の清作)と呼ばれたが、
芸人となり、近所の酒場(たこきゅう)から頂いた(たこ八郎)と言う芸名になるのである!!
河童がタコになった!!
これが、清作のライフスタイルでもある。
毎晩、飲み屋で飲んだくれて、TVに出る時も、素面かどうか判らない独自な芸風。
TVの前の人々は誰もが、奇妙な芸人が登場したと思った。
だが、これらも、清作の演技であり、客観的に自分を見ていたと言う友人の
意見が数多く語られる事から、ボクサー時代から、本人が一番、本人を
理解していたと思われる。
清作の才能はコメディアンには留まらず、
映画界でも才能を発揮し、
中でも山田洋二監督の(幸せの黄色いハンカチ)では、
高倉健と競演するなど、大物の役者との絡みも目立つ。
個人的には、松田優作主演の(探偵物語)の奇妙な酔っ払いや、
横山やすしと絡む(ビックマグナム黒岩先生)など、
昭和の大物カリスマと次から絡む演技が素晴らしく、
清作もまた、昭和のカリスマの一人であると思うのである。
だが、清作はノーガードで戦うスタイルから、由利に弟子入りした時代から
パンチドランカーに犯されており、師匠の家でも寝小便はする。
呂律も悪く、毎晩、飲み歩く生活を送っていたと言う。
飲み仲間には、赤塚不二夫やタモリやあき竹城や団鬼六と言う
奇才な人ばかりで、オンリーワンな生き様を私生活でも送っていた。
だが1985年7月24日 真鶴の海水浴場で飲酒して、海に入った清作は、
そのまま心臓マヒにて死去。
44歳の早すぎる死に仲間は悲しんだ。
「たこは海に帰った。 何も悲しいことはない…」
とタモリは葬儀にそう言い残した。
今では、赤塚不二夫や立川談志と浴びるように飲んでいるのであろうか?
清作の墓には、こう書かれている。
(めいわくかけてありがとう)
人に迷惑をかけながら、これだけ人から愛された人はいないであろう・・・・・・
だが、俺には偉大なボクサーであり、偉大な表現者であり、昭和を代表する
偉大なカリスマである。
今日のナンバー、親友であった、友川カズキがたこ八郎に捧げたナンバー、
彼が居た。
友川カズキ - 彼が居た ― そうだ!たこ八郎がいた